ミズオト



「あ・・・」
家を出て来た時は既に曇り空だったし。距離も距離だし持つかなぁ、などと考えていたのが
甘かったのか、予想は奇しくも外れ。
レジで精算を終えた飛鳥は自動ドアが開いたところではぁ、と情けない声を漏らした。
けれどもよく見れば小粒のぱらつく程度の雨。傘も差している人と差してない人が半々といっ
た感じなのでこれなら家まで走れば大丈夫かな、と考えて。
パーカーのフードを深く被ってビニール袋を胸に抱え直し、彼は全速力で駆け出した。


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アパートに帰ってきた頃にはもう雨は本降りとなっていた。
びしょびしょになって頭に張り付いてしまったフードを脱ぐ。中のTシャツも下のジーンズも靴も
靴下も、おそらく下着まで、全部が濡れてしまっていることだろう。
きょろきょろと周りを確認してからポケットから鍵を取り出しノブに差し込んだ。
「ただいま」
玄関でもたつきながら靴を脱いでいると、こちらに駆けて来る人影がある。
「彼」は俺の側まで来るとびっくりしたように目を瞠った。
一体どうしたのかと聞きたげな目線に俺は笑って答えた。
「ああ・・・雨に降られちゃって・・・」
そうして靴下も脱いだがまだ濡れたまんまの足で俺が洗面所にタオルを取りに行こうとすると
ぐいっと袖を引っ張られた。
大きく首を横に振って俺を引き止め、「彼」は急ぎ足で洗面所に向かう。
どうやら自分が持ってくると言いたいらしい。
俺は気持ち悪さからパーカーを脱ぎ、Tシャツも脱いで上半身裸の状態で彼をじっと待つ。
やがて彼は真っ白なバスタオルを胸に抱えて戻ってくる。そうして俺の体を丁寧な所作で拭
き始めた。
「・・・ありがとう・・・ございます」
頭を下げると彼はにっこりと笑った。

正直に言って見つけた時、奇跡というものは本当にあるのだと思った。
いなくなっていたと思われていた彼が、こうしてちゃんと実体として存在しているという事に涙
が出そうになった。
ここまでなら何の問題もなくハッピーエンドだ。
だが。
彼は「自分」を亡くしていた。
記憶、言葉、その両方が。
彼の中からすっぽりと消えて無くなっていたのだ。
嘘だろう、と思った。
以前の彼とはあまりにも変わりすぎていて・・・だから俺は悩んだ。
連れて行くか、それともこのまま置いていくか。
だが直ぐに答えは出た。否、きっと最初から心は決まっていたんだろう。
気がつけば彼の手を掴んで歩き出していた。

放っておく事など・・・出来る訳がないんだ。

彼に自我があったならこの時拒まれていたに違いない。
凛として、誠実で、いつだって潔くて、己の信念に実直な彼なら。

こんな恥をさらしてまで生きていたくはないと、そう言っただろう。

だけど俺は構わなかった。寧ろ彼が記憶を無くしていたことはチャンスだとさえ思った。
どんな形であれ、極端な話、爪の一枚でも、細胞の一つでも。
「彼」という存在がそこにあるのなら側にいて欲しい、側に置きたいとそう、願っていたから。
だから俺は彼をここに連れてきた。
自分はもう郷を離れた身だ。誰にも相談しなかったし、する気もなかった。
そしてそれ以来俺は彼をこの六畳という狭い空間から一歩も出すことなく閉じ込め続けている。



「あー」
形の良い唇から何かを訴える様な声が零れた。体を拭き終えた彼が俺の頭に手をやっている。
ぼうっとしていたのを咎められたのかと思っていたが今度は頭を拭く、ということなんだろう。
俺は素直に頭を預ける。
タオルの隙間から見えている笑顔。だが、その目は暗く淀んだ光を湛えている。
俺が伊波飛鳥という名で。
彼の知り合いだったということ。
教えてあげた事実はその二つだけ。彼は自分の名前すらわからない状態だ。
だが彼は俺を恨む事などしない。むしろ頼っている。
ずるいことをしているのは分かっていた。卑怯なことだという事も承知の上でやった事だ。
誰か知り合いにでも見つかっていたなら確実に批難の嵐だったんだろうが。
でも俺は嬉しかった。

誰でもない、自分だけを頼ってくれる「彼」を。

そしてこうも思う。
俺はきっと・・・こうなる事を最初から望んでいたのではないか、と。
だから。

(後悔などするもんか)

なのに。

「・・・・・・」

「あ・・・あ?」

急に黙りこくったのを不審に思ったのか「彼」は拭く手を休めて俺の顔を覗き込んだ。その変
化に気づくや否や、慌ててごしごしと手にもっていたタオルで頬を擦り始める。

「・・・ごめん、」

「あ?」

「ごめん・・・なさい」

顎を伝い、落ちる、雫。

「ごめんなさい」

それでも。
あなたがどうしても欲しかったんだと。
震える声でそう告げた。

『・・・あ・・・すか・・・』

果たして幻聴だったのか、それとも彼が発したものなのかは分からない。

けれどもその言葉は・・・その響きは。

何だかとてもやるせなくて。

何だかとても・・・悲しかった。

ぴちゃん、ぴちゃんと雨どいを伝う水の音を聞きながらぼやけた視界の中で見つけ、体が固ま
った俺が見たもの。
それは、
無造作に立てかけた鏡の中で、タオルを片手に困っている彼に情けなくしがみつき泣きじゃく
っている。浅ましくて憐れな、一人の男の姿だった。

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