ホホエミを君に


「なあ・・・凛ちゃんってばさー。いいじゃん、お茶ぐらいさー」
「しつこい。私にはお前の為に割く時間など無い」
「随分だなぁ」
相変わらず繰り返される、全くの内容の無い会話。本当に他愛も無い。

こんな遣り取りを幾度しても、私のこの男に対する興味は益々薄れてゆくだけだというのに。
否、元よりそんな物はないと断言した方が良いかも知れない。
知ってか知らずか、また今日も俗で言う「ナンパ」とやらに明け暮れている京羅樹。
自分など声を掛けても面白くないだろうに・・・
「もっと女性らしい奴は沢山いるだろう・・・例えばその、紫上・・・とか」
私がそう言うと奴はにやっと笑い(私の苦手な表情だ)「違う違う」と首を振った。
「んー。結奈ちゃんも可愛いんだけどねー。おとなしすぎてオレっちにはちょっと物足りないか
な」
「なら姫宮がいるだろう」
その名前を聞いた瞬間彼が固まった。
「凛ちゃん。冗談でも止めてくれない?おおやだ、想像しただけで鳥肌立っちゃったよ。第一ヒ
メと対等に付き合える男なんている訳ないじゃん。あんな化けもんみたいな女と」
「それは・・・」
彼女の人によりころころ変わるあの態度は前から気になってはいるが、それを抜かせば彼女
は一般的に見て「モテる女性」であると思うのだが・・・
一瞬彼に同意する言葉を言いそうになって、そこで押し黙る。なぜなら。
「・・・」
京羅樹は私とほぼ同時ぐらいに背後の黒いオーラに気がついたようだ。
「・・・もしかして・・・いる?凛ちゃん」
「・・・ああ」
いつもへらへらしている彼の顔がすっと引き締まり、急にひそひそ声になった。
「どうした」
「何とかならないかな」
「知るか。自業自得だ」
「そんなーっ!」
押し問答している間にも彼女はどんどんこちらに近づいて来ている。
私が「諦めろ」と云うと最早逃げられないと観念したのか、がっくりと肩を落とした。
そんな彼の背後より鈴を振ったような可愛らしい声が響く。
「今、アタシの名前が聞こえたんだけど・・・気のせいかしらねぇ、ラギー」
声とは裏腹に、足元からは土煙が上がっている。その様子から彼女の機嫌が相当悪い事が
伺えた。
「そ・・・空耳じゃな・・・」
よせばいいのに。無駄な悪あがきをした京羅樹の顔に、間髪入れずにすらりと伸びた足がも
のの見事にヒットする。
「があっ!」
「人を人間じゃないみたいに言いやがって。たっぷりお仕置きしてやる。覚悟しろ、この腐れ
野郎」
白目をむいて気絶している彼の首根を捕まえ、姫宮はふん、と鼻を鳴らす。
それから、じっと見ていた私に気がつくとにっこりと笑った。
「アタシここへは凛ちゃんを迎えに来たんだけど・・・気が変わっちゃった。このままコイツ連れ
て帰ってもいい?」
「・・・ああ、好きにすればいい」
「凛ちゃんはどうするの。もう帰る?それともまだいる?」
水音が心地よい。このままもう少しここにいる、と姫宮に言うと、彼女は分かったと頷いた。
「でもさ。風も出てきたしちょっとここは冷えるから、早めに戻んなよね。そうそう、今夜は皆で
鍋やるんだって。何鍋だろうねー。肉とか言っても猪とか鹿とか臭そうなものが入ってそうだ
けどさ。結構楽しそうだよ」
「そうか」
「ダーリンが今若林くんと一緒に材料の買出しに行ってるんだって」
どくん、と胸の中で何かが波打つ音がした。
「・・・そうか」
「うん、アタシも行きたかったなー。一応申し出たんだけどさ、重いもの持たせられないからっ
って断られちゃった。うふふ、やっぱダーリンは優しいよねぇ」
「・・・そうだな」
ざわめきだすこの鼓動の原因は何だろう。
今まで生きてきてこんな事は無かっただけに、余計に焦る。
苦しくなって胸元を押さえると、姫宮に「ん?」と首を傾げられて。
「どうかした?」
何か気まずくなって私は地面に視線を向けた。
「・・・いや」
自分で自分の行動が分からない。
何故彼の名前が出ただけでこんなに緊張してしまうのだろう。おかしい。
絶対におかしい。尋常ではない。
多分質問したら彼女は答えを明かしてくれるだろう。
だが話さない方がいい、いや話してはならないと心の何処かで警鐘が鳴っていた。
「変な凛ちゃん・・・まあいいや。じゃお先に」
打ち所が余程悪かったのか京羅樹はまだ目を覚まさない。「ちっ、重いなコイツ」と舌打ちしつ
つ、ズルズルと彼を引き摺りながら姫宮は去っていった。

さあぁ、さぁぁ、と涼しげな音に耳を傾ける。
引き寄せられるように滝へと近づくと、私は僅かな波を打ちつづける水面を見下ろした。
見えるのは輪郭の歪んだ自分の顔。
「宝翔はさ、もっと笑った方が可愛いと思うよ」
以前に言われた伊波の言葉を思い出す。
あの時は「馬鹿馬鹿しい」と一蹴したけれど。「俺、笑顔の可愛い女の子って好きだな」と誰か
と話していたのを偶然目撃した時、確かに私は動揺した。
私は、可愛くなどない。美人でもない。
そして女性らしくもない、そのようにする気も無かった。
それなのに。
変わりつつあるこの気持ちは。
水面を見つめたまま、私は唇を結び直す。そうして。
「・・・こ、これで・・・いいのかな・・・」
頬の筋肉を少し緩めた。
「も・・・もっとかな・・・」
我ながら馬鹿らしい、と思う。何でこんなことをやっているんだろうとも思う。
分からない。分からないけれど・・・何故かそうしたいと思ったのだ。
だが。
「宝翔・・・ここにいたんだ」
百面相に夢中になっていた私は側に誰かが来ている事など全く気がつかないでいた。
「・・・っ!」
びっくりして声も出せない。
そこに佇んでいたのは、夢でも幻でもない伊波飛鳥本人だったのだから。
「かっ・・・かっ・・・」
「か?」
「買出しはっ・・・」
搾り出すような声でそう告げると彼はああ、と言って小さく笑った。
「鍋やるってもう知ってるんだ。月詠の人たちにはぎりぎりまで秘密にして驚かせようって思っ
てたのにな。晃が喋ったの?うん、そう。もう終わり。今伽月達が下ごしらえしてる」
「な・・・何故・・・ここにっ」
顔に熱が集中してゆくのが自分でも分かる。口をついて出る言葉もしどろもどろだ。
「呼びに来たんだ。途中で姫宮に会って・・・ここだって聞いたから」
「わ・・・たしを?」
「うん」
確かこういう感情は・・・嬉しい、と云うのだったか。
緊張が解けてゆく私を、伊波はじっと微笑んで見ている。何だか落ち着かない。
イラついた為か少しだけ自分の声が荒くなった。
「何だ?」
「さっき笑ってたね」
「〜〜〜っ!」
怒りと恥ずかしさの為に言葉が出なくなる。
何てことだろう。情けない自分の姿を人に見られた。それも彼に。
思わずその場で腹を掻っ捌きたい気分に駆られる。しかし予想だにしない言葉がその口から
られた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「可愛かった」
「・・・何?」
「もっとああいう顔見せてくれればいいのに。俺宝翔の笑顔好きだよ」
「・・・」
「もう一回見せてよ、さっきの顔」
「伊波」
「駄目?」
「・・・」
ああ、私は本当にどうにかなってしまったのかも知れない。
「・・・こう、か?」
「うん、可愛い」
こんなに他人の一言で心が左右されるなんて。
けれど、不快なものではないのだから不思議で仕方が無い。
「風が冷たくなってきた。冷えちゃうからそろそろ行かない?」
「・・・ああ」
肩を並べて歩き出す。
「宝翔は鍋好き?」
「猪とか・・・鹿とかの肉が入っているものだと聞いたが」
「何それ・・・そんな物入ってないよ。普通だって」
あははは、と伊波が笑う。私はそうか、と言って俯いた。
「嫌いなものはある?」
「しい・・たけ、とか」
「なら俺食べてあげるよ」
微笑んだままの彼の顔を見つめると、胸の奥がじんわりと熱くなって。再び軽いパニック状態
になった私はすうっと息を吸い込んだ。
他愛もない会話。内容が無い話。それでも私がさっき京羅樹に抱いていた気持ちとは全く違う。

分からない。分からないけれど、ただ今は。
この穏やかな時間が長く続けばよいのに、とそればかりを思った。