ヤサシイキミ



それは1時間目の現代文が終わったばかりの、休み時間に入った時のこと。
「頼むって言ってんじゃんかぁ!早く見せやがれっての、飛鳥」
「それが人に物を頼む態度かっ。俺は知らない、自業自得だ。良い機会だから恥をかけ恥を」
「うぬぬぬぅっ!鬼!悪魔!それが幼馴染に対する態度かぁっ!」
次の時間は「数学」。
伽月がもっとも苦手とする科目である。しかも今日提出の課題があったと知ったのは今朝に
なってからで。幸いプリントはノートの間に挟んだままだったのだがまさか白紙を提出する訳
にも行かず、さっきから飛鳥に写させろと迫っていたのであった。
「もう時間無いんだからっ!早く見せてよっ」
「やだ」
「ぐうぅぅうっ!馬鹿飛鳥!何でこんなか弱い乙女が困ってんのに救いの手を差し伸べてくれ
ないのよぅっ」
「だーれが、『か弱い乙女』だ」
飛鳥も頑として譲らない。意地でも見せないつもりだろう、机に突っ伏して寝ようとさえし始めた。
「ぐー・・・」
「・・・このーっ、寝るなぁ!起きろ、飛鳥!早く、早くっ」
「ぐー・・・」
諦めることが嫌いな伽月が彼を押しのけてプリントを奪取しようと試行錯誤して約2分後。
キーンコーンカーンコーン・・・
無情にも休み時間終了を告げる鐘が鳴って。
「はい、残念でした」
「・・・覚えてろよ・・・あんたから受けた仕打ちは忘れないからね・・・」
ぱっと起きあがってにやりと笑った飛鳥に、憎々しげに捨て台詞を投げつけると。
伽月はがっくりと肩を落として自分の席へと戻っていったのだった。




放課後。
担任の石見が「それではまた明日」と教室を去っていくと、飛鳥は帰り支度を始めた。伽月は
そんな彼を一瞥すると同じく離れた席で帰り支度をしている若林に声を掛けた。
「ねぇねぇ、マコっちゃんさぁ。今日何か予定とかある?」
「え?あ、はい。今日は特には」
飛鳥はその声にぴく、とこめかみを引きつらせ聞こえてくる方向に目を向ける。
ちらり。
と伽月はまた飛鳥を見やる。そして彼と目が合うなりにやりと笑い、科を作って若林に差し迫
った。
「あのさぁ、今日あたし課題忘れてその罰としてみんなよりも多くプリント出されちゃったんだぁ。
マコっちゃん数学得意でしょ?良かったら教えてくれないかなぁ・・・駄目?」
「あ・・・あの・・・」
「マコっちゃん・・・駄目?」
「・・・僕でいいなら」
ふう、とため息をつきながらも彼女に向けた微笑みがとても柔らかで、優しくて。
飛鳥の胸にちくり、と小さな痛みが走る。
「ありがとうっ。やっぱりマコっちゃんは優しいなぁ・・・誰かさんと違って」
誰かさん、の所で妙に声のトーンを落とした伽月は飛鳥が傍にいるのをちゃんと分かっていて
嫌みを言う。
はっきり言って伽月とはいっつも喧嘩ばかりして来たから、少々きつい事を言われてもへっち
ゃらだった。
周りに「おい、あんな事言われて平気か」と言われても全然、と答えていた。もう腐れ縁だ。
一々気にする事自体がばかげている。
だけども。
若林の机の前の席の椅子をくるりと回して向き合うように座る伽月の姿。それからちらりとこ
ちらを見た若林の顔を見るなり頭にかっと血が上った。
「飛鳥さん・・・」
「俺、帰る」
楽しそうに話している彼らをこれ以上は見たくなくて。
飛鳥は鞄を肩に掛け、二人に背を向けて歩き出す。
それでもやっぱり気になって教室の扉を閉める時何気なく小さな窓から中を覗くと、口に手を
当てて微笑んでいる若林と、大きく口を開けて笑っている伽月が見えた。
「誠の・・・ばかっ」
泣きそうになるのを唇を噛んで堪えると、飛鳥はわざと足音を立てながらその場を立ち去った。




「・・・すっかり遅くなってしまったな・・・」
若林は寮の玄関で靴を脱ぎながら小さく呟いた。
あの後、場所を書院へと変えて飲み込みの悪い伽月に分かるように丁寧に教えていたら「そ
ろそろ帰りなさい」と見回りに来た先生に注意される程の時間になってしまっており。
「ごめんね、あたしの為にマコっちゃん巻き込んじゃって」
遅いからと家の前まで送った若林はすまなそうに頭を下げる伽月にいいえ、と首を振った。
「一ノ瀬さんのお役に立てたんですから良かったですよ」
「・・・当てつけだったんだ」
「はい?」
何を言い出すのか、と次に伽月の口が紡ぐ言葉を若林はじっと待っていた。
「飛鳥さ・・・マコっちゃんが『いい』って言ってくれた時凄く悲しそうな顔してたでしょ?あたし、
それ知っててわざとマコっちゃんに課題教えてくれって頼んだんだよ」
若林の性格ならきっと断らない。
ずるいよね、あたしと言って伽月は自分の頭を左手で小突いた。
「ちょっと意地悪するつもりが・・・こんなに胸が痛むなんて・・・マコっちゃんを引き合いに出し
ちゃってホント、反省してる。いつも飛鳥とは喧嘩ばっかりしてたけど今回は流石に酷すぎた
って自分でも思うもん。でも・・・さ。あたし意地っ張りだからなかなか謝れないトコあんだよね。
・・・マコっちゃん、寮帰ったら飛鳥に謝っといてくれないかな。明日になったらちゃんと自分で
も謝ろうとは思ってるけど・・・とりあえずさ」
「はい」
矢張り彼女は彼女なりに飛鳥の事が気になるのだ。
けれど性格上素直になれない所のある伽月らしいその言葉に、若林はくすりと笑いながら深
く、頷いた。
「大丈夫・・・きっと彼は許してくれますよ」




薄暗い廊下をひたひたと歩き、真っ先に向かったのは飛鳥の部屋である。
軽くノックをするが返事は無く。
「飛鳥さん。僕です。若林です」
もう一度先程よりも少し大きめにノックをすると、中からがさがさという音が聞こえてきて。
ガチャリ。
キィーと木の軋む音がしてゆっくりと扉が開くと、中からはパジャマを纏った飛鳥が硬い表情
で若林を出迎えた。
「飛鳥さん・・・もしかして寝ていましたか?」
「・・・いや」
少し目が赤いのが気になって声を掛ける。すると飛鳥はそれを隠すように顔を下に向けた。
「・・・少しお話したいんですが・・・入っても良いでしょうか」
若林が遠慮がちにそう伺うと、彼は小さくうん、と答えて部屋の中へ招き入れた。
飛鳥の部屋の中は明かりがついていなかった。明かりの代わりになっているのは窓から差し
込む弱い、月の光だけ。
飛鳥と若林は何も言わずにベッドに隣あうように腰を掛ける。
しばらく沈黙が続き、先に口を開いたのは若林の方だった。
「・・・すみませんでした」
「・・・」
飛鳥は答えない。若林の方を見ようともせず、じっと俯いている。
「やっぱり怒ってますか?」
「・・・別に。元はと言えば俺が伽月に課題を教えてやんなかったのが原因なんだし・・・あい
つがそれで怒ってもそれは仕方の無いことだよ・・・けど。あいつは怒り過ぎだ」
素直になれないのは伽月だけではなく飛鳥も一緒だ。
だけど、何処かでちゃんとお互いの事を認め合っている。
こういう似たところがあるからやっていけるんだろうな、と若林は自分と美沙紀とは違う彼らの
関係に少しうらやましさを感じた。
「では、許してくれるんですか」
「許すも何も、別に怒ってないって言って・・・」
飛鳥がそこで言葉を句切ったのは、若林の腕が動いてすっぽりと彼の体の中に包まれたから
だった。
「・・・嫉妬してくれてると、思ったものですから」
「なっ・・・」
「嫉妬してくれると嬉しいと、そう思いました」
若林は飛鳥の耳元に口を寄せると、そう呟いた。
飛鳥は恥ずかしさでいっぱいになって、まともに若林の顔が見られない。それでも、思ってい
る事はちゃんと伝えようとパニックになっている頭を宥め言葉を探す。
若林は飛鳥に、言葉を求める。
好き、とか愛しているとかは勿論、怒っている時や泣いている時でもちゃんと言葉にしてくれ、
と言う。
それは言葉が持つ力を若林が一番知っているからだ。
「・・・嫉妬・・・したよ」
「飛鳥さん」
「伽月は幼馴染だから・・・別にお前といても平気だって思ってたのに・・・いざお前達が笑い
合ってるのを見たらこう胸がぎゅうっ、って痛くなって」
自分を見つめる若林の目は何処までも優しい。飛鳥はそれを独り占めしたい、といつも思う。
「何か俺、ちっちゃいよな。心がさ」
「いいえ・・・さっきも言いましたけど僕は嬉しいです」
「嫉妬が?」
見上げる飛鳥の額に若林はちゅ、と音を立ててキスを落とした。
「飛鳥さんが僕の事を好きだっていう証拠ですから」
あ、痕がついた、というその言葉に飛鳥が慌てて若林の体を引きはがして鏡に向かう。
「うそ、ですよ」
なんだ、ついてないじゃないかと向き直ろうとするその一瞬の隙を狙って若林は彼をだき抱え
た。
「う・・・わっ!」
そのままベッドに横たわらせると再び微笑む。だがそれはちょっと意味の違った、何かを企ん
でいる時の目で。
「まこ・・・と?」
「君が大好きです。これから痕が付くことをしたいんですけど・・・いいですよね?」
いいですか、では無く「いいですよね」。
時折強気なこの恋人をちゃんと全部理解するにはまだまだ時間が掛かるだろうなと、頭の片
隅ではそんな事を考えつつ、飛鳥は頬に優しく触れる若林の手を取り自分の唇を押し当てると
そっと瞳を閉じた。

Back