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遅い。
おそい、おそい、おそい、遅いったら遅い!
唇をぎりりと噛んで、美沙紀は腰に手を当てて仁王立ちのまま怒鳴った。
「若林!若林はどこですのっ!」
本に視線を落としていた生徒達が何事かと顔を上げるが、彼女の姿を見つけると「やれやれ」
といった風な表情をしてまた読書に戻る。
「は、はーい・・・」
書棚の奥の方から弱々しい声が響いた。やがて、コツ、コツと踵で床を鳴らしながら両手でえ
っちらおっちらと重そうな本を沢山抱えた若林 誠が姿を見せる。
「お・・・お待たせしました・・・那須乃さん・・・はぁ・・はぁ・・・」
「遅いですわっ!たった10冊の本を探すのに何を手間取っているのですか!わたくしには時
間がないんですのよ。あぁ、もうそんなへっぴり腰で・・・何と情けない。貴方それでもれっきと
した男なんですの?」
一方的にまくし立てる美沙紀をなるべく見ないようにして、誠は持ってきた書物を次々と机の
上に並べてゆく。たかが10冊といっても1冊の本の分厚さは辞典並み。男でも悲鳴を上げてし
まう重さである。無茶苦茶な事を言っているがもうこんなやり取りは日常茶飯事なので今更
何を言われても気にはならない。
「ちょっと若林!わたくしの言う事をちゃんと聞いているのですか?こっちを見なさいこっちを!
いいこと?大体貴方はいつもわたくしの言葉にはい、はい、って言うけれど・・・」
「・・・10冊、確かに探しました。那須乃さん、リストに載っていた本はこれで以上ですか?」
「え?」
「もう良いですか。これから読書に入られるんでしょう?しばらく用が無ければ、僕はこれから
外に行って時間を潰して来ようかと思っています。ちゃんと迎えには上がりますからいつ頃戻
ってくれば良いかだけ教えて下さい」
自分の言葉を途中で遮られた美沙紀は当然の如く面白くない。
「用・・・そう、用ならまだありますわっ!こんな沢山の本、流石のわたくしでも読み切る事は不
可能。若林、お前5冊引き取ってレポートにまとめなさい。その方がわたくしも手間が省けるし
要点だけ押さえられて一石二鳥ですわ!」
・・・だったら持ってこさせなきゃいいのに。またお嬢様の気紛れが始まったか。
まぁ・・・大体予想はついていたけどね。
乾いたため息を吐き出しながら、誠は「・・・はい」と返事した。
自分の時間を持とうとするといつも決まって邪魔される。だけど、このお嬢様には逆らえない。
彼女の指示に従うことはもう当たり前のことになっているから仕方がないといえば仕方がない
のだが。
「・・・わかりました。では何冊か引き取らせてもらいます。那須乃さんが先に選んで下さい。
僕は残った本を借りて行きますから」
「・・・そ、そう。それなら・・・わたくしはこれとこれと、あとこの3冊にしますわ。若林・・・最近感
じていたのですけれど、貴方最近ちょっとおかしいのではなくって?仕事にもまるで熱が入っ
ていないようですわよ。腑抜けてますわ」
言われてみると確かに美沙紀に突っ込まれた通り、近頃の自分は何をするにも身が入らない。
熱がある訳ではない。五月病というわけでもない。
考えられる理由があるとすればそれは唯一つ。この間執行部に加入した『彼』のせいだろう。
「僕が・・・変・・・?」
「ええ。何か上の空で、暇さえあればぼうっとして。まぁ、今までだって貴方はかなりのんびり
していたけれど、最近は輪をかけてますわ。まるで実らない恋でもしているみたいですわね」
ふん、と鼻息荒く美沙紀が言った。
・・・そうか。
弾かれたように背筋を伸ばし、誠は自嘲気味に、そしてひどく苦しそうに笑った。
「そう見えますか・・・」
「若林?」
ついぞ見せたことのない表情に美沙紀は思わず立ちすくむ。余りに驚いてしまった彼女は口
調こそ変えないものの、慌てて次の言葉を探した。
「え・・・えっと。わ、わたくし何か変なこと言ったかしら。嫌ね、本気に取るなんて貴方らしくあ
りませんわよ。つい釣られて下らない事を口走ってしまったわ。さ、読書読書」
「那須乃さん・・・」
不器用で意地っ張りな彼女らしい話の切り替え方に、誠は今度はほっとしたように微笑んだ。
とそこへ、一人の若者がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
「やぁ、二人とも。ここで読書?」
それはつい今しがたまで彼が思い描いていた人そのものであったからびっくりして声も出ない。
心臓がどくん、どくん、とさっきよりも大きく、脈打っている。聞かれやしないかと心配した誠は
思わず胸を押さえた。
「あら、貴方こそこんなところに来るなんて珍しいですわね、伊波飛鳥」
「ちょっと調べ物があってね。文献を探しに来たんだ」
美沙紀のつっけんどんな口調に全く動じない飛鳥がひら、と手に持っていたメモを見せた。
「ふーん、あらそう。なら一人で勝手にお探しなさいな、わたくしは忙しいんですの」
「僕、一緒に探しましょうか」
美沙紀と誠の声が重なった。飛鳥はきょとんとしていたが、やがて誠に向かって微笑むと「う
ん、そうしてくれると助かる」と言った。
すると間髪入れずに置いてけぼりにされた美沙紀が声を張り上げる。
「若林!お前こいつの・・・いえ、この伊波飛鳥を手伝おうって言うんですの?」
「だって、那須乃さんから言われた仕事はとりあえず終わったじゃないですか。レポートは今
日中に書いて明日お渡ししますからいいでしょう。流石に僕でも今5冊読んでいきなりレポート
書けっていわれてもそれは無理ですよ。それに、困ったときはお互い様ですから」
本当は彼と一緒にいたい、という気持ちがとても強くて思わず手伝おうと言ったのだが気取ら
れてはならないと誠は一生懸命に心を隠しつつ、至極真っ当だと思われる理由を述べた。
「・・・なるほど、そういう事ですの・・・ふん、わかりましたわ、なら勝手になさい。若林、今日は
もうこれで下がっていいわ。さっさとそこにボサーっと突っ立っている男の探している本とやら
を見つけたらとっととこの場所から去りなさい。こんな奴と一緒にいるのは気分が悪いですわ」
一気にまくし立てると、美沙紀は荒々しく本を開いた。誠と飛鳥が思わず顔を見合わせる。
「那須乃さん・・・?」
「いいから、さっさと探したらいいでしょう。わたくしだって情というものは持ち合わせておりまし
てよ。まだカバに踏まれたくはありません」
「カバ?」
誠が言われている事がさっぱり掴めず首を捻る。すると、美沙紀は本に目を落としたまま怒っ
たように言った。
「人の恋路を邪魔する奴は、カバに踏まれてなんちゃら、と申しますでしょ」
「・・・・・ぷっ」
飛鳥が吹き出し、腹を抱えて笑い出した。美沙紀は何故自分が笑われたのか分からない。そ
れでも馬鹿にされているという事だけは分かったから、ぐぬぬ、と憤怒の表情で飛鳥を睨みつ
けた。誠がそれを宥めるように自分も顔を真っ赤にしながら美沙紀に小さく耳打ちする。
「那須乃さん、それを言うなら『馬に蹴られて〜』ですよ」
「えっ?・・・あ、あら、そうだったかしら・・・ま、まぁ似たようなものじゃありませんこと?」
「・・・そうだね。じゃあ那須乃をこれ以上怒らせない内に早く目的の物を探そうかな。手伝って
くれる?誠」
「・・・もちろん」
笑い過ぎて出た涙を拭きながら、飛鳥は誠にメモを渡す。誠はそれを受け取って大事そうに胸
に抱いた。
「行こうか」
「はい」
自然に差し出された手を目の前にして、誠は目を見開いた。視線を上げると飛鳥の淡いアーモ
ンド色の瞳から投げられる強い視線にぶつかって、顔がどんどん熱くなる。
この手を取っても・・・いいんだろうか。
指を開きかけた誠はぐ、と思い止まるようにこぶしを握り締める。そんな様子を見た飛鳥がふっ
と笑って、強引に右手を掴んだ。
「ほら、早くっ」
「・・・はいっ」
包み込む手は優しく、そして涙が出そうなほど温かかった。
誠は先ほどまでの鬱とした気分が一掃されたかの様な清々しい笑みを飛鳥に向け、それを受
けた飛鳥も更に倍返しの微笑を彼へと向けて二人は仲良く奥の書庫へと消えて行った。
「・・・ふん。あんな表情も出来るんですのね。初めて見ましたわ」
残された美沙紀はもうとっくに読むのをやめていた本に頬杖をついて、彼らの後ろ姿を見送った。
「知らぬは本人ばかりなり・・・ってところかしら。全く鈍感にも程がありましてよ、若林」
そしてああは言ったものの自分一人では持ちきれない本を誰かに運んでもらおうと、女王様は
周りをぐるっと見渡してこう言い放った。
「誰か、わたくしの荷物を寮まで運ばせてあげてもよくってよ」
・・・残念なことに、誰の名乗りも出なかった。
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