とうとう、この日がやって来たと、啓太は大きく深呼吸をして自分を落ち着かせた。
退院当日は予定通りの水曜日。
下の窓口では中嶋が会計中。
もう一度忘れ物がないかサイドテーブルやロッカーを開け閉めして確認する。それから隣のベ
ッドで本を読んでいる自分より七歳年上だという彼に挨拶しようと口を開いた。
「あの」
「・・・ああ、もう支度できたの?」
お世話になりましたと云うより早く、彼は啓太の方を向いて微笑んだ。
「はい・・・あの、たった二日間でしたけど色々ありがとうございました」
「いや、礼なんて言われるような事してないって」
「でも」
検査入院で月曜日からこの部屋に入ってきた彼は見舞いがくると元気に振舞うものの、一人
になった途端塞ぎ込んでしまう啓太を色々と気に掛け話し相手になってくれた。
好きなテレビ番組の話、映画の話。他愛もない話題でも楽しかったのは単に人恋しかったか
らではない。
「会計は終わった?連れの彼が下で?」
「はい。もうじき上がってくると思います」
「そっか」
本を脇に置き、上半身を起き上がらせると彼はスリッパを履いて啓太の元にやってきた。
「最後だからさ。一つ質問をしてもいいかな」
「・・・俺に答えられる事なら」
「ずっと気になっていたんだ・・・君は俺と話をしていた時、本当は何を考えていたの?」
「えっ・・・」
「俺を通して他の誰かを見ているみたいだったから」
啓太は何も言えず下を向いた。
果たして彼に言っていいものかどうか一瞬迷って目を瞑る。
「それは・・・あの」
「うん」
「あの・・・」
「うん・・・」
言おう。本当のことを。
だが。
啓太が意を決して彼にその答えを告げようとした時、遮るように中嶋が靴音を鳴らして病室へ
入って来た。
「待たせたな。啓太」
「あ・・・」
二人は顔を見合わせた。視線はそれきり離れる。
中嶋は何も無かったかのような表情でベッドの上のボストンバッグに手を掛けた。
「行くぞ」
「・・・はい」
目の前の彼に軽くお辞儀をしてから早足で出て行く大きな背中を、両手に袋を持った啓太が
慌てて追いかける。
しかしそれは部屋を出る直前で止まった。最後にどうしても彼の顔が見たかったからだ。
啓太はゆっくりと振り返る。
「気をつけて」
彼は全てを包んでくれそうな優しい笑みを湛えてひらひらと自分に手を振ってくれていた。
とん、と背中を押されたような気がした啓太は、感謝の意を込め深く頭を下げた。
タクシーに乗り込み、行く先を告げた後に訪れる沈黙は重苦しい事この上なく。
手の中の荷物をじっと見つめる啓太。そんな事をしても何も話題なんて出てこないって事
位分かってはいるのだけれど。
寮に着くまでこんな風に黙っているだなんて、間が持たない。
「じっとしてろ」
何かないかと忙しなく視線をあらぬ方向に巡らす彼を諌めるように、中嶋は前を向いたまま冷
たく言い放つ。
「・・・はい」
項垂れ、しばらく俯いていた啓太は数分後、恐る恐る顔を上げて隣の様子を窺う。
確固たる意思を秘めているいつもの強い眼差しは何処か弱々しく、それでいて疲れているよ
うにも見えた。
それは正に啓太に結論を出す時が刻一刻と近づいているという事を、指し示していた。
大して会話も弾まないまま、二人を乗せたタクシーは寮の前へと到着する。
「部屋まで荷物を運んでやるからとっとと中に入れ」
「はい」
精算を済ませた中嶋が啓太の背を押しやった。
促されるままに玄関へと足を踏み入れた瞬間に彼の目に映った男の顔は、数日前より随分と
やつれているようだった。
「啓太・・・」
「・・・・・・」
言葉もなく、啓太はその場に立ちすくむ。
「諦めが悪い奴だ・・・本当に待っていたんだな」
「啓太・・・」
中嶋の皮肉など全然聞こえていないというように、遠藤は彼の方へとに近づいてくる。
夢遊病者にも似てふらふらとおぼつかないその様子が怖くて、反射的に啓太は後ずさった。
「啓太、逃げないでくれ・・・お願いだから」
「勝手に触れるな」
差し伸ばされた腕が啓太の肩に触れるより早く、中嶋が間に割り込みそれを捻り上げる。
「うっ・・・」
遠藤は低くうめき、それからぼろぼろと涙を零した。
「啓太・・・ごめん・・・今更だけど・・・本当に今更だけど・・・」
「か・・・」
あと少しの所で和希と叫びそうになる口を、啓太は唾を飲んで喉の奥に押し込める。
「黙ってろ。同情でこいつの気を引くつもりか」
眉間に深い皺を刻ませ、苦々しい顔をした中嶋は掴む手に力を込めた。
「うぐっ・・・」
「啓太」
そうして彼は苦しそうに顔を歪める遠藤から目を逸らすと、顔だけを啓太に向けて瞬きもせず
怒気を孕んだ口調で問う。
「は・・・はいっ」
「もうここいらが潮時だ・・・お前はどちらを選ぶ、啓太」
「俺・・・」
和希。
中嶋さん。
(・・・どっちを)
啓太は固く唇を噛んだ。交互に彼らの顔を見つめ、そして。
「啓太・・・」
「答えろ」
震える声で、遂に啓太はその人の名を彼らに告げた。
「・・・俺は・・・」
[つづく]
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