|
約束の10分前、啓太は待ち合わせ場所に立っていた。
初夏と呼ぶには早いがそれに近い暑さに汗が噴出すのをハンドタオルで抑えながら、視線
は彼の姿を探していた。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「明日は僕の家に来ませんか?」
大型連休の真っ只中。
Tシャツに短パンという極めてラフなスタイルで、風呂上りの啓太が冷凍庫からアイスを取り
出すと、突然携帯が鳴った。
その着信音で誰からの電話なのかがすぐに分かった彼は、慌てて袋を開けようとしていた
それを、再び冷凍庫の中へと戻す。
「はい、伊藤です」
通話ボタンを押す啓太の顔は嬉しさでにやけていた。
「七条です。こんばんは、伊藤くん。今電話していても大丈夫ですか?」
「はい」
早く彼の声を独り占めしたくて、階段を駆け上り啓太が自分の部屋に滑り込む。
ドタバタと五月蝿い足音に何事かと隣の部屋の妹が顔を出したが、既に兄の姿はもう無か
った。
ベッドに寝転び、ちょっと上がった息が聞こえないかと心配しながら、啓太が再び電話に耳
を当てた。
「すみません、ちょっとドタバタしちゃって」
「いえ。では今は伊藤くんは自分の部屋にいるんですね?」
「・・・どうしてわかったんですか?」
分からないはずが無かろうに。何度か電話したことのある七条には、まだお邪魔したことは
無いが、伊藤家の間取りは大体掴めている。
だから今では何処で彼が電話を取ったのかまで、手に取る様にわかっていた。
今日は、キッチンにいたのだろう。冷蔵庫の開閉らしき音がしたから。
「・・・ふふ、ナイショです」
「すごいなぁ、七条さんって」
尊敬したような彼の声が受話器から届くのを満足に思いながら、七条が言葉を続けた。
「ところで、伊藤くん。このお休みの間何処か行かれるんですか?」
「いや、特に今のところ予定は無いです・・・けど。それが何か?」
「じゃあ、急ですけど明日は僕の家に来ませんか?」
焦がれている相手からの急なお誘いに、啓太の胸がドクン、と波打つ。
断れる理由など、在りはしない。
「家、というと北陸のじゃなくて・・・」
「はい。今僕は横浜のマンションにいるんですよ」
ついこの間の事の様に大晦日のことを思い出し、啓太の耳がボッ、と熱くなる。
電話線の向こうの彼に見える筈は無いのに、全てを見られている様な気がして思わず無言
になった。
「・・・伊藤くん?」
「・・・な、何でもないです!俺、楽しみにしてますからっ!」
声色から、今彼は顔が真っ赤なのだろうな、と七条が容易くその様子を想像し、一人ほくそ
えむ。
「良かった。じゃあ、明日午後1時に。場所は前と同じでもいいですか?」
「はいっ!」
鼻息さえ聞こえてきそうな啓太の勢いづいた返事に幸せを噛み締めた彼がそっと囁く。
「・・・愛してますよ、伊藤くん。今夜は僕の夢を見て下さいね・・・」
ちゅ、とわざと音を立てて電話にキスをすると、それを聞いた彼は「し、七条さんっ!!」と驚
いた声を上げた。
1分でも長く声を聞いていたいから、自分からは電話を切らない彼の耳にちょっと鼻に掛か
ったような、啓太の甘い声が響いてくる。
「俺も・・・大好きです・・・臣・・・さん。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ツーツーと通信が切れた音が鳴る受話器をしばらく見つめた後、ぼんやりと窓の外を見やる。
「・・・参りましたね。今夜は眠れそうにありませんよ」
そう呟くと、彼は再度それに唇を押し当てた。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
きょろきょろ、と顔を左右に動かして必死に自分の姿を探している啓太の姿に、七条は微笑
みながらその様子を一部始終見ている。
時間に律儀な啓太が10分前には来ているだろう、との予測をつけて実は20分前から待ち
合わせ場所から少し離れた喫茶店の中で、彼は優雅にアイスティーを飲んでいたのだった。
テーブルの上にはアールグレイのミルクティーと、ミルクレープのケーキセット。
ここの紅茶を気に入っているので、七条はたまにフラッと一人で立ち寄ることがある。
ノートパソコンをいつも携帯している彼は長いときで2時間ぐらい居る時もあるが、マスターも
店員も何も言わない。必要なこと以外は干渉しないという、一見不親切にも見えるその態度
が居心地を良くさせている理由でもあった。
「さて、もうちょっと様子を見ましょうか」
そう言うと七条はカチ、と手元のパソコンを起動する。
グラスの中の液体を口に入れテーブルにそれを置くと、氷が解けて、カラン、と冷たい音を立
てた。
待ち合わせの時間を30分ほど過ぎても、七条は現れなかった。
「どうしちゃったんだろう、七条さん・・・いつも時間に遅れる人じゃないのに」
目を凝らして周りを見渡してもそれらしき人物は見当たらなくて、啓太がふっ、と小さく溜息
をつく。
長身で美しい彼は、学園にいても街中にいても人目を引くのですぐに分かる。
また、啓太にとって七条は「最も大好きな人」であるという事が大きなアンテナとなっており、
何処にいてもすぐに見つけることができた。
だが、今日は。
まだ彼の姿は探し出せない。
「きっと、何かトラブルがあったんだ。うん、きっとそうだよな」
自分自身を納得させるかの様に啓太はそう呟くと、鳴らない携帯電話をぐっと握り締め、再
び流れ落ちる汗を拭いた。
・・・約束の時間から約50分が経過しようとしていた。
七条は2杯目のアイスティーを飲みながら、駅に佇んでいる啓太をじっと見つめる。
所在無さげにぐるぐると歩き出した彼が七条と似たような背格好の男を見つけ、はた、と止
まった。
しかし、違うと分かると明らかに落胆した様子で肩を落とし、とぼとぼと元の位置に戻る。
それが何度と無く繰り返された後、ついに耐え切れなくなったのかその場にしゃがみこんだ。
(・・・もう限界かも知れない)
既に電源を切ったパソコンを鞄の中にしまうと、七条は丸められた伝票を強く掴み、レジで
慌しく清算を済ませ早足で彼の元へと向かった。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
彼の周り半径3メートル程、ぽっかりと穴が開いたように人がいなかった。
俯いたままの啓太は、顔を上げようとはしない。そこだけが空気がひどく、重く、感じられた。
(ちょっと苛め過ぎたか・・・泣いているのかも知れないな)
言葉をかけるのを躊躇ったが、やがて意を決した様に七条が彼の前に立つと口を開いた。
「伊藤くん」
すると振り子のようにぶん、と頭を上げた啓太が眼前の彼をその目に捉えた。
「・・・七条さん!」
彼は、泣いてはいなかった。
それどころか安堵しきった顔で、ほぅ、と息をつき次の瞬間。
七条が最も愛する、あの無邪気な、向日葵のように眩しい笑顔で微笑んでいた。
裏表の無い、どこまでも真直ぐな啓太にズキン、と七条の胸の奥が痛む。
「伊藤・・・くん。すみませんでした、こんなに遅れてしまって・・・待ちくたびれたでしょう?」
本当にすみません、と七条が頭を下げると。
「いいんです俺、七条さんは絶対来るって信じてましたから。それより何かあったんですか?
もしかして急用が入っちゃったとか・・・」
ああ、キミは。
どこまで僕を惑わせれば、気が済むんでしょう。
いつもいつも、自分の事より相手の事を一番に考えてしまう。
それが自分に対してだけではなく、周り全ての人に対してもそうだから、僕は何時でも何処
でも、気が気じゃないというのに。
「啓太くん・・・」
最中でしか呼ばれないその名前を、こんなたくさんの人が居る前で呼ばれた彼が、顔を赤く
染めた。
ふわり、と七条の手が動き、そのまま啓太の顎を引き寄せる。
一瞬。
彼の唇が、啓太のそれに重なった。余りに早すぎて何が起こったのかわからない啓太が目
をぱちくりさせて呆然としている。
「さぁ、行きましょうか」
何事も無かったかのように、彼が歩き出した。
その後を、啓太が慌てて追いかける。如何ともし難い足の長さが、どんどんと距離を開いて
ゆく。今度こそ泣きそうになった啓太が困り果てて「七条さん」と呼ぶと。
やがて彼は啓太に向き直り、「おいで」というようにスッと右手を差し出した。
極上の笑みをプラスして。
これ以上赤くなりようも無いぐらいに頬を紅潮させた啓太が嬉しそうに、自分の手を重ねた。
「七条さん・・・大好き・・・」
聞こえるか聞こえないかの声で言った啓太の言葉に、七条は。
くすくすと笑いながら、でもその目は真剣に。
ゆっくりと耳朶に口を近づけて愛しい恋人に、そっと囁いた。
「もう・・・離しませんから。どうか、覚悟してくださいね・・・」
|