自転車を所定の場所に置き校舎の中へと足を一歩踏み入れた所で、ふと背後に視線を感じる。
「啓太」
振り返ってみると渡り廊下の所に立っていたのは、岩井だった。
「岩井さん?どうしたんですか?」
予想しなかった人の姿に思わず啓太は持っていた荷物を取り落としそうになってしまって、岩
井が手に持っていた画材道具の入った袋を放り出すとそれを地面につくスレスレのところで
キャッチする。
「あっ・・・ご、ごめんなさい!俺・・・びっくりしちゃって・・・」
渡された包みを大事そうに抱えて、ペコンと頭を下げる啓太に岩井は「気にするな」と言って今
度は床に散らばった自分の物を拾い集め始めた。
「又河本さんに頼まれたんですか?」
転がった筆や絵の具。それらを見て啓太はまた岩井が無理をしているのではないかと心配に
なる。
手伝ってあげたいけれど両手が塞がってしまっているのでどうすることも出来ない。自分より
も色の薄い柔らかそうな長い髪を見つめながら問うと、儚げな雰囲気を醸しだす岩井はその
言葉の裏に隠されたメッセージを即座に読み取り「心配するな」と言って笑った。
「この前絵を飾ってもらったレストランのオーナーがとても気に入ってくれたみたいでな。又描
て欲しいと頼まれたんだ。無理はしていない。大丈夫だ」
「それならいいんですけど・・・あ、で。その絵は今どこに?」
「美術室に置いてる・・・これで全部か。そうだ啓太。今度興味があったら見てみるか?」
全てを回収できたらしく、膝を叩いて立ち上がり啓太を見つめる岩井の瞳は優しい。その彼に
頭をそっと撫でられて、「はい」と答える啓太の目にじわり、と涙が浮かんだ。
「・・・啓太?」
いけないっ!
啓太は気づかれまいと顔を肩に押し付けてそれを拭いとったが、岩井の顔は曇ったままだ。
「何かあったのか?」
「・・・なん・・・でも。何でもありませんっ」
誤魔化して浮かべた笑顔は自分でも分かる位ぎこちなくて、更なる疑問を植えつけたに違い
なかった。それでもこのままだと岩井の優しさに流されてしまいそうだと思ったから啓太は。
「じゃ、俺失礼します」
小さく呟くとそそくさと、その場を離れたのだった。
心配そうに後姿を見守る岩井の元へは、タイミングよろしく部活の最中らしい道着姿の親友
が近寄ってくる。
「どうした卓人」
「・・・篠宮・・・あのな、啓・・・」
そこまで言って岩井が口ごもったのは彼の過保護なまでの心配性が啓太にまで及ぶのを恐
れての事だ。
「何だ?」
「いや、何でも無い」
「けい・・・って何だ?ケーキ?毛糸?卓人何だ、話せ」
「嫌だ」
二人が言いあっている間に、啓太はというと目的の生物室に到着していたのだった。
コンコン。
「どうぞ〜」
間延びした声に誘われるまま啓太が生物室のドアを開くと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
「遅くなりました」
「あれ・・・伊藤くん。私服なんて珍しいね。滝くんは?」
机に向かって何やら書類と睨めっこしていた海野が、顔を上げて啓太の姿を見つけると「?」
という表情を浮かべ首を傾げた。
「あ、あいつ今寝込んじゃってて。今日だけ俺が代理でデリバリーやってるんです」
「そうなんだ。今の時期何か暑くなったり寒くなったり変な天気が続いてるもんね。伊藤くんも
体壊さないようにね」
「はい・・・で、先生。手伝いって?」
「あ、そうだねごめん。あのね、今度学会に発表する論文の原稿が見当たらなくなっちゃって
それを探すのを手伝って欲しいんだ」
しゅんと項垂れる海野が縋るように啓太を見つめる。犯罪的に可愛い彼にお願いされては誰
であろうと断れる筈がないってものだ。当然啓太ははい、と答えた。
「原稿って・・・紙ですか?」
「ううん、CD−ROM。・・・この部屋にあると思うんだけど」
海野がガチャ、とドアを開けて隣接している準備室に彼を案内する。さっき言った言葉を啓太
が覆したくなったのは・・・その凄まじさだった。
「あの・・・先生」
「なぁに?伊藤くん」
「この部屋、泥棒にでも入られたんですか・・・?」
「え?ううん、僕位しか出入りはしないけど・・・何で?」
「・・・いえ」
実験台にされないよりはマシかも知れないけれどこれはこれで骨が折れる仕事だ。
思ったより長く掛かりそうな『お手伝い』に啓太は「よーっし」と自分自身に気合を入れた。
「やるぞっ」
「よろしくね」
自分も手伝うと言った海野をいいからと押し戻し、まずは散らばった書類の片づけから始めよ
うと身を屈めて紙を拾い集める啓太の耳にふと、「そういえばトノサマ、帰ってこないなぁ。ど
うしたんだろ」という声が入ってきたが、彼はぶるん、と頭を大きく振ると黙々と作業を続けた。
[つづく]
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