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タタタッと、背後から駆けて来る足音を聞きつけて、足を止めた。
「し・ち・じょうさーんっ!!」
振り返って足を止めてあげると、息を切らし、ばさばさと髪の毛が乱れるのも気にしない彼、
伊藤啓太が僕の元へと辿り着いた。
走ってきたのだから暑くてたまらないのだろう、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩め、両手を団
扇代わりにしてパタパタと煽ぐ。
胸に手を当て、はぁ、はぁ、と乱れる息を整えながら「追い付いたっ」と笑う彼の仕草一つ一
つが愛おしくて、思わず目を細めた。
「伊藤くん、そんなに急がなくても僕は何処へも逃げませんから、安心して下さい」
心を押し殺し、常に平静を保とうとするのは昔からの癖だ。だが、漸く手に入れることの出来
たこの目の前の天真爛漫な恋人の前では段々それも上手く出来なくなってきているのが現
状。
ほら、今だって口角が少しだけ上がっているのが自分でも良く分かる。
「だって・・・ひ・・・七条さんの姿を見つけたら俺、いてもたってもいられなくなっちゃって」
あ。
まただ。
以前からちょっとだけ(そうほんのちょっとだけ)気になってはいたのだが。
「伊藤くん」
「は・・・はい?何ですか?」
差し出したミネラルウォーターをごくごく、と飲み干して口を拭った彼がキャップを閉めながら首
を傾げた。
「僕の名前は・・・やっぱり言いにくいですか?」
「・・・へっ?あ・・・ああっ!!・・・ご、ごめんなさい・・・俺・・・わざとじゃないんですっ 」
僕の言わんとしている事がすぐに理解できたのか、顔を赤らめた彼が下を向いた。
「良いんですよ、別に君を責めているわけじゃありませんから」
そう。
『しちじょう』という苗字はどうも発音がしづらいらしく、今までも先生やクラスメイトが何度か噛
んでしまっているのを目の当りにしてきた。(郁は物心付いたときから『臣』だったから例外)
未だに「し」と言えず「ひ」と発音する人も多分にいる。そしてこの僕の恋人もその中の一人。
3割に近い確率で間違える彼は、すぐに気づくと慌てて言い直すのだがそんな心遣いを毎回
の様にさせてしまっている事が甚だ心苦しく思えてきたのも事実。
僕の気分を害したと思ったのか、彼は俯き顔を上げない。もじもじと所在無さげに手に持った
ジャケットをぐちゃぐちゃをこね回し、時折ちら、と窺うような眼差しを向ける。
「伊藤くん」
一つ、わざとらしく大きな溜息をついて見せると、ビクッと体を硬直させて「は、はいっ!」と姿
勢を正した。
どうも、こういう弱々しい彼を見るとつい虐めたくなってしまうのだが、今は耐えなければ。
そんな事でもしようもんなら、忽ちこの青い瞳は零れんばかりに涙を湛えてしまうだろう。
そういう表情はベッドの上だけ、僕の前だけでいい。
この緑が萌える学園内で似合うのは、太陽にも似た彼の『笑顔』だ。
「七条・・・さん?」
目尻がうっすらと朱に染まりつつあるのをそっと指で拭いながら、彼の耳に口を近づける。
「もう、辞めましょう。『七条さん』ではなく『臣』と呼んで下さい。その方が言い易いでしょう?」
「!!!」
するとザザッ、と耳に手を当て飛びずさる様にして彼が僕から遠のいた。
「おや」
耳が弱い彼は見る見るうちに真っ赤になってゆく。
知っていながら彼の反応を楽しんでしまう僕は、やっぱりちょっと意地悪なんだろうか。
「だ・・・だって、それはっ・・・」
「はい?」
君の言いたい事はわかっています。
だけど、僕は恥ずかしがりやさんですから自分からは言いません。あくまでも君の口から言わ
せたいんです。
「俺と・・・七条さんの・・・秘密・・・じゃ、ないですかっ。それに俺がそう呼んだら七条さん・・・」
はい。欲情してしまいますね。確実に。
「確かに・・・抑えが効かなくなるかも・・・知れませんね。こうして『七条さん』と呼ばれている
時でさえも興奮してしまう位ですから」
「そんなっ・・・」
なんて可愛らしいんでしょうね、君は。
笑顔も泣き顔も、快楽に溺れている時の顔も、全て全て、僕にとっては興奮を高める材料で
しかないのですよ。全く君は存在自体が危険因子です。
「君に変な気遣いをさせたくないんです。僕が我慢すれば良い話ですから、伊藤くんは心配
しないで名前で呼んで下さい」
「で・・・でも・・・」
言い澱む彼はなかなかウン、と首を縦に振らない。
駄目ですか。しょうがないですね。では。
「伊藤くんは・・・もしかして迷惑です・・・か?」
俯いて肩を震わせてみせると、慌てた様に案の定彼は僕にしがみついてこう答える。
「違いますっ!俺、全然迷惑じゃないです・・・ただ、恥ずかしくて・・・それで」
「それで?」
「だって、俺名前で呼ぶとアノ時のこと・・・思い出しちゃうから・・・」
縋りつく彼の顔を覗きこむと、唇がうっすらと開きキスを強請る様な表情になっていた。
自然にそんな顔が出来るようになったのは、誰のせいなんだろう。
と、自分自身に答えが分かっている質問を投げながら優越感に浸る。
リクエストにお答えして軽く口を合わせてあげると、彼は安心したように微笑んだ。その姿は
さながら蘭の花のように艶やか。
「僕もですよ」
「でも俺、今度からは名前で呼ぶようにします。だから・・・一つだけお願いを聞いて下さい」
「何ですか?」
「しち・・・臣・・・さん、も、俺のこと、名前で呼んで下さい。俺と・・・臣さんは、恋人・・・同士なん
ですから」
ノックアウト、です。
「臣は啓太には絶対に勝てないな」
郁、貴方の言った言葉が今ならよく分かります。振り回されているのは彼では無く、余裕ぶっ
ている僕の方だったんですね。
「臣・・・さん?」
「啓太くん・・・。今日は会計部の仕事はなし、です」
「え?」
「今すぐ寮に帰りましょう」
「えぇっ?だって女王様が書類の整理をって・・・」
「郁には僕から連絡を入れますから。もう一秒だって待てません」
「えぇぇぇぇっ?!」
悪いのは、君です。
・・・啓太くん。
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