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「うた・・・ですか?」
「はい」
唐突に投げかけられた質問に、どんな答えを返したら良いのか。
分からないまま、啓太は自分を抱き締める腕をそっと離した。
「僕は本当は苦手なので出来れば避けたいと思って逃げ回っていたんですよ。理事長だけ
だったらまだ断れたのですが、郁まで賛同してしまいましたからね。嫌だとは言えなくなってし
しまいました」
そう言いながら彼が静かに瞳を伏せると揺れる長い睫。
何気ない仕草の一つ一つについ目を奪われてしまう啓太が見蕩れ。口を開けたまま固まった。
「どうしたら、良いでしょうか」
縋るような、本当に困ったような七条さんの顔。
「あの、和希が言っていた何かCDを作るとかの話ですか?俺も歌ってくれって頼まれて初め
は嫌だって断ったんですよ。でも泣きつかれて最後にはOKしちゃいました。あはは。ホント
下手なんでどうしようって感じなんですけど」
「伊藤くんなら大丈夫ですよ。一生懸命さがちゃんと伝わってくる、独特な歌い方だと郁も褒め
ていましたし」
啓太の頬がひく、と引き攣る。
「それって・・・褒めてるんじゃなくて、単に面白がっているだけなんじゃ・・・」
「おや?そうなのですか?僕はてっきり褒めてるんだとばかり思っていましたが」
七条が両腕を腰に回し自分の胸に引き寄せると、啓太は丁度抱っこされるような格好になる。
時刻は午前1時を過ぎたところ。ベッドサイドに灯るランプだけが部屋を照らす中、色違いのお
揃いのパジャマを着た二人は向かい合って座っていた。
「ですから、一つ恥を忍んでお願いがあるのですが」
「はい・・・?」
「伊藤くんが僕に、歌のレッスンをしてくれませんか?レコーディングの日まではまだ時間があ
りますし」
「はいぃぃぃ?」
ね、とそんな目を細めてお願いポーズをされても。
俺がその笑顔にとことん、弱いことも全部知っていて、この人は。
「だ・・・」
「だ?」
「駄目っ!駄目です!俺なんて人に教えるほど上手くありませんからっ!西園寺さんは?あ
の人では駄目なんですか?」
「やれやれ、伊藤くんもまだまだ郁の事を把握していないようですね。あの人がこんな俗っぽ
いお願いに一々答えてくれると思いますか?」
うっ。
確かに・・・そうは・・・思えない。
だが、自分にはやっぱり荷が重過ぎるんじゃあ・・・。
「じゃ、じゃあ。王様・・・とか」
七条がいいえ、と首を横に振る。
「確かにあの人は歌は上手いかも知れませんが・・・ジャンルが・・・ね」
そうでした。
演歌でした。
啓太はふと七条のコブシを回して歌い上げる姿を想像し、一人楽しくなってしまった。
でも、他に誰か手本になるような人は・・・
「あ。な・・・」
あの人なら何でも卒なくこなしそうだ。一回だけ連れていってもらったジャズバーで鼻歌程度
に口ずさんでいたのを聞いたけど、ちゃんと歌えばきっと上手なんだろうなぁと思った。
だがその名前をこの人の前で呼ぶのは導火線に火をつけているのと同じこと。
「伊藤くん?」
「あ・・・あははは」
啓太はぶんぶんと頭の上で手を振って誤魔化した。
「・・・今、僕が最も嫌っている人の名前を言い掛けませんでしたか?」
「・・・あはははは」
全てお見通しって訳で。
「僕は君の個人レッスンを受けたいです・・・お願いです。引き受けてくれませんか?」
「で・・・でも俺っ・・・」
「大丈夫ですよ、簡単な事でいいんです。発声練習に付き合ってくれるとか、とりあえず僕の
歌を聞けばどんな練習をすれば分かるはずですから」
「は・・・はい」
やや押し切られる形にはなったが、啓太はそこまで言うなら、と恋人のお願いを潔く引き受け
たのであった。
ポローン。
放課後の音楽室にピアノの音が響く。
「はい、七条さん。ドーの音ですよ、ドー。はい」
「どー」
「七条さん、それはミの音ですよ、ドはこれ」
ドー。
啓太が人差し指でドの音を叩く。
「どー」
「それはレ、です」
・・・これは思った以上に困難かも知れない。
参った、と頭を抱える啓太がちらりと七条を見やると、彼はにっこりと微笑んだ。
もう・・・そんな顔したって・・・でも何だかこの笑顔には逆らえないんだよなぁ。
ふう、とため息を吐き出し、椅子に座り直した啓太が弛緩しきっていた頬を引き締めた。
「いいですか、俺がお手本を見せますから。その通りに繰り返してやってみて下さいね」
「はい」
両手を鍵盤に乗せて音を弾き出す。
じゃん。
「ドレミファソファミレドー」
じゃん。
「はい」
「ドレミファソファミレドー」
「・・・七条さん。やっぱり最初からやりましょう」
「おや?今のは結構いい感じだったと思ったのですが。そろそろ歌の方に入りませんか?」
「すみませんがはっきり言わせてもらうと、苦手とかそれ以前の問題です、七条さん」
頑張れ啓太。頑張れ七条。
彼らが目指す場所は、まだ遥か彼方だ。
そうして、啓太の血の滲むような努力の甲斐あって、レコーディング当日には嬉々として参加
し、ノリノリで唄う七条の姿があった。
凄い上手い、とまでは行かないものの人には聞かせられる程度にまでは彼はステップアップ
していた。約一週間の個人レッスンの賜物だ。
で、その先生はというと。
「何かやつれてない、啓太」
言いだしっぺの和希、もといBL学園の有能たる理事長が心配そうに啓太の傍へと駆け寄った。
「あははは・・・俺、もう駄目」
バタン。
「わわわわっ!啓太っ、おい、啓太っ!しっかりしろって」
白目を剥いたまま気絶している啓太の口元は達成感からか、綻んでいた。
「臣、またお前は啓太に無茶させて・・・」
西園寺が苦々しいといった表情を浮かべて七条に詰め寄った。
「大丈夫ですよ。僕が後でちゃんと介抱しておきますから・・・一晩中ね」
「大よそ想像が出来たが・・・それは介抱、とは言わないのはないか?」
「いいえ、ちゃんとした介抱ですよ」
ヘッドフォンを外し、にこやかに笑う彼の背中には小さな黒い翼が確かにパタパタ、と揺れてい
た。
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