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この世が楽しいことばかりなら本当に良いけれど、そうは問屋が卸さないのが現実というもの。
誰もいない学園の渡り廊下に重たげな足音を響かせる伊藤啓太はおそらく後数分後に起こ
るであろう悲劇を想像して、がっくりと肩を落とした。
今この状態で戻ったら絶対に無傷では済まされない。
けれどだからと云ってこのまま戻らなければもっと痛い目に合わされるに決まってる。
どちらにしてもただでは終わらないのだ。それなら誰だって重い方より軽い方を選ぶ。
「別に怒られるのは今に始まったことじゃないし・・・」
自分を納得させようと独りごちてみても、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、という早鐘を打ち続ける心臓を
抑える事は出来ない啓太の歩く速度が急激に遅くなった。
やっぱり、怖い。
でも行かないと叱られる。
腕時計を見た。時間は16時24分を少し過ぎたところだ。
「16時半までに戻って来い」
・・・時間内に戻って来られなかったらどうなるか。それはお前が一番分かってるな、啓太。
地を這うように低く、だけど笑いをかみ殺したような声の彼の言葉を思い出し、啓太は無意識
にぶるっと体を震わせた。
残り約5分。
ここから学生会室まではちょっと距離がある。だけど猛スピードで走ればぎりぎりだが間に合
うはず。ジャケットは学生会室に置いてきて今はワイシャツ姿の啓太は、さっき下ろしたばかり
の両袖を再びたくし上げて走る体勢に入った。
そのままダッシュで行け・・・れば良かったのに。
「伊藤くん」
背後から声が掛かり、感情がモロに出る啓太の顔は心底泣きそうな表情に変わる。
本当なら脇をすり抜けて「失礼します、急いでるんでっ」と云いたい所だ。だがこの人を無視す
る事なんて出来ない。どうしよう、どうしようと内心パニックになりながら啓太はその場に固まる。
「そんなに慌てて何処に行くんです?」
「あの・・・えっと・・・」
「こちらを向いて話せないほど、僕は君に嫌われているんですか?」
悲しそうな声音に啓太は息を詰まらせ、しぶしぶと七条に向き直ると彼はにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。で、どうしました?何か探しものでも?」
「あの、王様を・・・」
「ああ、いつもの事ですね。またどこかで居眠りでもしてるんでしょう」
「はい、中嶋さんから探してこいって頼まれて」
はっ。
禁句を放った瞬間七条の顔が僅かに歪む。だが、すぐに何事も無かったように元の表情に戻
った。
しかしそれがさっきのものと大幅に意味が違っていた事に普段なら気がつく筈の啓太は全く
それに気がつかない。
「・・・そうですか」
「でも見つからなくて・・・わぁっ!もう27分だっ!あと3分しかないっ!どうしようっ、どうしよう」
わたわたわたと目の前で右往左往する啓太の頭をくしゃりと混ぜて、七条は微笑んだ。
「何で急いでいるのか大体想像はつきましたから、もうお行きなさい、伊藤くん。彼は僕が探
しておきますから」
「えっ!七条さんが?でも・・・俺・・・」
言いながら啓太の足はその場で駆け足状態になっている。
「気にしないで・・・でも、そうですね。引け目を感じるのならこれでチャラにしましょう」
「あ・・・」
啓太の足が止まった。
「ふふっ。ご馳走様でした」
「しち・・・じょうさん・・・」
「もう間に合わないかも知れませんよ。良いんですか?」
「あっ!じゃ、じゃあお言葉に甘えてお願いしますっ」
「はい、確かに」
啓太は七条に背を向けると、それはもう上履きが脱げそうな勢いで校舎の中へと走り去って
いった。
一方残された七条は、先程から痛い位感じるその視線の先を辿るとその瞳に挑戦的な色を
浮かべ呟く。
「・・・笑っていられるのも今のうちですよ」
ガラス越しに彼を見つめる青い髪の人物はふっ、と乾いた笑みを漏らすと室内へ消えた。
16時29分。
「ま・・・間に合った・・・」
学生会室のドアの前で啓太は両手を膝につき、荒い息を繰り返していた。
・・・これで怒られる理由は一つで済む。
捲り上げた袖を下ろし、深呼吸をすると意を決して扉を叩く。
「・・・よし」
コン、コン。
部屋の中からは冷たく、低い声が響いた。
「誰だ」
啓太はいつも思う、これが先生だったらどうするんだと。しかし中嶋さんだからという一言で納
得出来てしまう自分がいる。
何だか彼はもう全ての存在を超越しているというか、もう生まれて来る時から支配者気質が
備わっていたのだろう、と時々そんな事を考える。
「・・・伊藤です、入ります」
そうしてそんな人と自分が付き合っているという事実に未だ、慣れないでいたりもするのだ。
「フン、10秒前か。間に合わないと思っていたんだがな、お前を見くびっていたようだ」
中嶋はパソコンに向かったまま、振り向きもせずそう言った。
「で?丹羽は?」
「あの・・・それが・・・行きそうなところは大体探したんですけど、見つからなくて・・・」
啓太が泣きそうな顔で告げると、ようやくキーボードを打っていた手を止めて彼が振り向いた。
眼鏡を外し、何度か瞬きを繰り返す。それから一つ、小さく息を吐き出すと啓太に目の前の椅
子に座れと目で合図した。
「それでお前はのこのこと、手ぶらでここへ帰ってきたと。そういう事なんだな」
「で、でもっ!俺本当に一生懸命探したんですっ!決してサボったりとか、そんな事はしてま
せんっ!」
「俺は過程を聞いているんじゃない。結果を聞いてるんだ。サボろうが何をしようが探して連
れてこられたのならそれでいい。だが、お前は見つけ出せなかった。そうだな?」
頭の先から足のつま先まで刺すような視線で射抜かれて、ただただ怖くて。
膝の上に置いた手の指が震えるのを啓太は止められない。
「・・・はい」
中嶋さん・・・とても不機嫌そう。きっと、結果を出せなかった俺に対して怒ってるんだ。
「ご・・・ごめんなさいっ!俺、やっぱりもう一度探してきますっ!」
立ち上がり、踵を返して部屋を出て行こうとする啓太の手を中嶋が掴むと自分の元へと引き
寄せた。
「もういい。丹羽は後で俺が探す」
「あの、それは・・・」
七条さんが、と言いかけたその言葉をすんでのところで啓太が飲み込んだ。
これ以上彼を怒らす原因を作りたくない。そんな事を言った途端中嶋が何をするのか、想像
しただけで悪寒が走った。
『触らぬ神に祟りなし』
余計な事は話さない方が身の為だ。
何度となく失言を呈し「お仕置き」された啓太が身を持って知った教訓だった。
「ところで、俺はさっきとても面白いものを見たんだが」
中嶋が啓太の癖の強い髪に頬を埋めて熱っぽい声で囁く。
「ラブシーンだ。誰と誰のか、聞きたいか、啓太」
らぶ・・・しーん?
啓太の中で色々と身近な人物の顔が脳裏に浮かんでは消える。
誰だろう?分からない。
「そいつには分不相応な程素晴らしい恋人がいるというのに、どうやら欲求不満らしい。犬に
キスをされて喜んでいる位なんだ・・・全く凄い奴だろう?」
自分を抱く手により一層力を込められて、日頃から鈍感だと言われ続けてきた啓太にもそれ
が一体誰と誰の事なのか見当がつき。さあぁ、と血の気が引いてゆくのが自分でも分かった。
「あ・・・あの・・・それって・・・」
「それから俺が思っていたよりも、そいつはお人よしで無防備だと言う事がよーく、分かった」
「な、中嶋さ・・・」
「どうした、啓太。顔が真っ青だぞ」
サドだ。この人はもう根っからのサディストだ。俺の反応を見て楽しんでるんだっ!
だがその行動に対してまずは誤解を解かないとと思った啓太は必死で身振り手振りで訴える。
しかし、そんな言葉をはいはいと聞く彼なら苦労なんていらない。
「言い訳なら、体に聞くのが一番だ・・・一番正直だからな」
「ちょ、ちょっと、中嶋さんっ!」
「お仕置きだ」
鍵をがちゃりと閉められて指をぽきぽきと鳴らす彼の下で啓太は、どうか今七条さんが王様を
連れて帰ってきませんように、とそれだけを祈りながら観念したように広い胸に頭を預けた。
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