僕が好きな君、君が好きな僕。



珍しく学生会も会計部の手伝いも無かった日、クラスメイトと出かけたカラオケでその兆候は
既に現れていた。
「伊藤、お前何か声変じゃない?」
あまり上手い方ではないが歌う事は嫌いではない啓太がマイクを握り気持ちよく十八番を歌
い終えたばかりの時、曲リストから顔を上げた友人に聞かれて。彼はそうかなと首を傾げる。

そう言われれば確かにちょっと喉ががらがらするけど・・・

きっと歌い過ぎだよと笑い飛ばし、氷の溶けたウーロン茶に手を伸ばしてぐいっと中身を一気
にあおったら痛みが少し楽になった。これがいけなかったのも知れない。

(帰って寝れば直るよな)

この日この時、軽く考えずにもうちょっと気をつけてさえいれば。
その5日後、彼は海よりも深い反省を強いられることとなるのだ。





                          ◆◆◆





「げほっ・・・ごほっ・・・」

小さなシグナルを見落とした、その報いとでもいうように。
啓太は風邪を引いてしまった。
寮の私室でベッドに横たわり激しく咳き込みながら熱に浮かされた目で見上げる天井はぐに
ゃぐにゃだ。
自分は動いていないのにマットにずぶずぶと沈んでいくような感覚。それを恐れる余り身を捩
れば関節が軋んで激痛が襲ってくる。
体の向きを変えるのさえ辛い。咳のし過ぎで胸も痛い。
ピピピと脇の下で音が鳴った。痛みを堪えて腕を伸ばして。取り出した電子体温計が表示した
38℃という数字は、今朝から何度計っても変わらない。

「けほ・・・」

ぼんやりとした頭で思うのは明日が和希の誕生日だということ。
彼にあげるプレゼントはまだ用意していない。何も考えていなかった訳ではなくて、何をあげ
ればよいのかを迷いあぐねている内に前日になってしまったのだ。

(どうしよう・・・)


焦りと、悔しさで唇を噛み締める。
途端、胸が苦しくなって思いっきりむせてしまって。

「げほっ!げほっ!」

「伊藤、入るぞ」

自分の咳でノックの音に気がつかなかった啓太は腕を掴まれ、そこでやっと揺らぐ視界の中
に誰かがいることを知る。

「げほっ!・・・だ・・・誰・・・?」
「篠宮だ」
「し・・・のみや・・・さ・・・ん?」

篠宮は慎重に彼を自分の身体に凭れ掛からせると、「これを飲め」と持ってきたミネラルウォー
ターのペットボトルを口に運んだ。

「・・・・・・」

啓太は素直に唇をつけて、こくん、こくん、と飲み始める。

「少しずつでいいから。ゆっくり・・・そうだ」
「ん・・・」

中身が三分の一ぐらいになった頃まだ飲むかと聞かれた啓太は静かに首を横に振った。
熱はどうだ、と額に当てられた手はついさっきまで水を持っていたせいかとひんやりとして心
地良く、甘えるように目を閉じる。

「まだ・・・下がらないな。食欲はまだないか?あるなら何か作ってくるが」
「いえ・・・」

目を開ける元気もない啓太の答えは「ノー」。
好意は有難かったけれど、食欲は沸かなかった。

「だけど・・・」

それでも何かないかと篠宮が聞くとやがて彼は何かを思い出したように虚空に目を馳せ、ぼ
んやりと呟く。

「りんご・・・」
「りんごが食べたいのか?」
「搾りたてのジュース・・・・昔母が風邪ひくとよく作ってくれたんです」
「分かった、待ってろ」

アイスノンを敷いた枕の上に頭を置かれ、肩までしっかり布団を被らされて。
遠ざかって行く背中を見つめながら啓太ははぁ、と溜息をついた。




                          ◆◆◆





数分後ジュースを作って再度啓太の部屋を訪れた篠宮は、汗だくだった身体を綺麗に拭き、
新しいパジャマに着替えさせてくれた。
何度も感謝の言葉を述べる啓太に彼は「こんな事礼を言われるほどのことじゃない」と言って
笑ったけれどそれは気を使わせないための心配りだろう。
普段から尊敬しているが、啓太にしてみればこの時ほど篠宮が頼りになるなあと感じたことは
なかった。

(何かやっぱり篠宮さんって「お兄ちゃん」って感じだよな・・・)

自分も一人の妹がいる。兄という意味では同じ立場なのにどうしてこうも違うんだろうと思うと
情けなくもなった。

(俺なんか妹が熱だしたって隣でおろおろして騒いでただけだったもんなぁ・・・)

お兄ちゃん、か。
その響きに和希のことを思い出す。
あと・・・二時間しかない。

「間に・・・合わなかったな・・・」

副作用が出てきたのか瞼がだんだん重くなってきた。

「ごめ・・・ん・・・」

ごめんね和希、と。
何度も謝りながら啓太はとろとろと眠りの淵に落ちていった。



静まり返った部屋にすうすうと寝息が響く中。足音を忍ばせるようにして入ってきた一人の若
者は、ゆっくりとベッドの方に近づいていくと彼を見下ろし小さな声で囁き掛ける。

「ただいま・・・啓太」

いつもの如くこそりと帰ってきたら不幸にも寮長にロビーで会ってしまって。説教を受けた後啓
太が風邪を引いていると聞き慌てて飛んできたのだった。
熱があるのだと聞いて心配になって額に手をやると、その顔は抵抗を見せるように僅かに歪む。
(まだちょっと、熱いかな)
胸元に入れていたハンカチで張り付いた汗を拭ってやる。眉間に寄っていた皺は忽ち、すっと
消えた。




                          ◆◆◆




一方啓太は夢を見ていた。



小さい二つの影が見える。一人は・・・俺?
もう一人は・・・ああ、そうだ。幼い頃遊んでもらった「お兄ちゃん」だ。

「啓太・・・」

お兄ちゃんは優しく俺を見ている。
そうだ、俺、言わなくちゃ。お兄ちゃんに言いたかった言葉があるんだった。

「お兄ちゃん」
「何?啓太」
「僕ね、お兄ちゃんのこと、大好きだよ」
「啓太・・・」

びっくりしたような顔のお兄ちゃん。なんか変なこと言ったかな?
でも直ぐにその後。

「ありがとう」

そう言ってくれたお兄ちゃんの顔はとっても綺麗で。
胸の奥がきゅん、と痛くなった。







実際にそれを口に出して言っていたことなどまるで気がつかない啓太はまだまだ夢の中。
和希はそんな彼を布団の上から起こさないよう、そうっと抱き締めて。


「ありがとう」


啓太が夢で見ていた「お兄ちゃん」と同じ笑顔で、嬉しそうに笑った。


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